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お食事ならのそば処「代官屋敷」 世界遺産(文化遺産)「韮山反射炉」

静岡県伊豆の国市韮山にあるそば処「代官屋敷」。手打ちそば,日本そば,三島鰻など自慢の料理をご堪能下さい。
昼食(ランチタイム)の他、各種宴会・忘年会・新年会・法事など団体様・観光バスも歓迎いたします。

伊豆韮山のそば処「代官屋敷」 静岡県伊豆の国市

静岡県伊豆の国市韮山にあるそば処「代官屋敷」

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世界遺産(文化遺産)「韮山反射炉」

反射炉とは

韮山反射炉

反射炉とは、金属融解炉の一種で、砂鉄などの不純物を含む銑鉄(せんてつ)を高温で溶かして、優良な鉄を生産するためんも炉のことです。銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となりますが、反射炉は熱を発生させる燃焼室と精錬を行う炉床が別室になっているのが特徴で、天井が浅いドーム形になっている溶解室で、天井に炎や熱を「反射」させ、銑鉄に集中させることで高温を実現する仕組みになっています。

溶かした鉄は、鋳型に流し込んで大砲などに加工され、当時の最先端技術と言えるものでした。

大砲

韮山反射炉の歴史

江川英龍

享和元年(1801年)生れの江川英龍(えがわ ひでたつ)は、近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、嘉永2年(1849年)に江戸の自宅に小型の反射炉の実験炉を試作しました。これが後に伊豆韮山で作る反射炉の原型となります。

嘉永6年(1853年)の黒船(ペリー)の来航により、日本は外国の脅威にさらされました。江戸湾防衛の実務責任者となった英龍に対して、江戸幕府は内湾 への台場築造と平行して、大砲製造のために反射炉の建造を命じます。ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた英龍でしたが、蘭書の記述のみでの反射炉建造は非常に困難な事業でした。連双式(溶解炉を二つ備える)もの2基を直角に配置して、四つの溶解炉を同時に稼動させて大型砲を鋳造するための工夫がされました。

黒船

ただ、安政2年(1855)、英龍は韮山反射炉の竣工を見ることなく病死してしまいます。後を継いだ江川英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、安政4年(1857)11月、韮山反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成しました。

韮山反射炉では、「鉄製18ポンドカノン砲」や「青銅製野戦砲」などの西洋式大砲が鋳造されました。

炉体と煙突部分を合わせた高さは15.7m、実際に稼働していた反射炉が残っているのは、日本ではここ韮山だけとなります。稼働していた幕末当時は、反射炉の周辺には各種の作業小屋や倉庫などがたちらならび、多くの職人が働いておりました。

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